緑川でございます。急なご指名でまとまったお話はできないと思いますが、私は1950年、こちらにみえておられます竹田行之君と二人、岩波書店に入社いたしました。入社のときの面接で、「君は『世界』を読んでいるか」とたずねられまして、「ハイ、読んでいます」と申しますと、「何か印象に残っている記事はあるか」ときかれ、丸山先生の「超国家主義の論理と心理」(1946年5月号)と野上弥生子さんの「迷路」(1949年1月号連載開始)を大変興味深く読んだと答えました。それが良かったのかどうかはわかりませんが、たまたま採用されまして、文科系の学部の出身なものですから、岩波文庫編集部にでもと思っていましたら、雑誌『世界』編集部に竹田君と二人配属になりました。 ほぼ1年経った1951年10月号の『世界』が講和問題の特集を組みました。9月8日発売のところを無理して9月1日に出して、何とかサンフランシスコ講和条約の調印の日(9月8日)の前に出しました。この号は全面講和の主張を基調にしており、『世界』の部数は通常の号の五倍に飛躍し、内外に反響を呼びました。この主張にはほぼ1年前の1950年12月号の「三たび平和について」という平和問題談話会の長文の報告が大きな前提になっております。丸山先生はその第1・2章を分担執筆されました。先生方が夜を徹して「報告」を仕上げるかたわらに控えていて、あの丸山先生が机に向かっているお姿を目の前にしつつ、ともかくそれを整理して印刷所に入れるというのが、私の事実上の仕事始めでありました。 それ以降、丸山先生からいろいろな原稿を『世界』に頂戴しました。また、『岩波講座現代思想』の監修にも丸山先生は加わられていて(都留重人、清水幾太郎、中野好夫、古在由重の先生方が吉野源三郎氏とともに共同企画した)、私はその編集を担当しましたが、1957年7月には「反動の概念――ひとつの思想史的接近――」を第5巻に、11月には「日本の思想」を第11巻に発表されました。全体の監修責務とご自身の原稿執筆を同時に進められたわけですが、ご一緒に駿河台の駿台荘という旅館に一週間近く泊まり込んだことがあります。その間、ちょっと息抜きにというんで旅館を抜け出して観に行った映画がオードリー・ヘップバーン主演の「ローマの休日」でした。(笑)「日本の思想」を執筆されているときには、もっぱら小林秀雄について、君はどう思うかと私にきかれながら、小林秀雄論をあれこれ話されていました。 あるとき、桑原武夫先生が上京されて、駿台荘は桑原先生の定宿だったのですが――晩飯は一緒でいいだろうということになったのですが、これはもうカンヅメにならないわけです。というのは、ご承知のようにお二人は話が始まると止まらないわけです。桑原先生は鼻茸――鼻のなかにできものがあって、ときどきチンチンと鼻をかまれるわけです。そうすると、そのすき間をぬって丸山先生が猛烈な勢いで話を始められる。(笑)また止まらないわけですね。丸山先生は、――晩年は非常に厳しく煙草を嫌われて嫌煙権を強く主張されました。僕の車に乗られると「君の車はタバコ臭いからねぇ」なんてよくおっしゃっておられました――かつては超々ヘビースモーカーで、煙草が切れると継煙草で、連続して何本も吸われました。1本吸い終わって継煙草をする、そのときにちょっと話が止まると、すかさず桑原先生がおしゃべりを始める、(笑)こうやってお2人が延々と話して夜中の12時近く。12時過ぎて私がひとりで駿台荘の風呂にとびこむと、湯船のなかには林健太郎先生がいらしてバツが悪かったということもありました。(笑) 8月15日というのは、先ほど小尾(俊人)さんが「献杯のことば」でふれられていたように丸山先生のお母様のご命日です。丸山先生は広島の爆心地から4キロメートルの地点の宇品で1945年8月6日を迎えられ、そのあと広島市内を歩かれました。その際に丸山先生はまぎれもなく被曝をされているわけです。そして8月15日にお母様が亡くなられて、その報をはるか宇品で聞かれるという体験をされる。その丸山先生も5年前の8月15日に亡くなられる。 今日は実は1965年10月号の『世界』を物置を探して持って来ました。この号は10月号といっても9月8日に発売されまして、敗戦20周年の、この年の8月のことを扱っています。敗戦20周年のときの8月15日というのは、実にたくさんの集会が東京で行われていました。わだつみ会の集会もあるし、また小田実さん達のベ平連の徹夜ティーチ・インなど、さまざまな集会もあったわけですが、日高六郎先生、藤田省三先生が司会をされて九段会館で「8・15記念国民集会」を1部・2部にわけて行いました。第二部で丸山先生が聴衆の一人として発言されました。聴衆の席から発言したのは、女子高校生と30歳代の男性と私どもの師にあたる吉野源三郎氏と丸山先生の4人でした。『世界』10月号には、聴衆席で立って話をされる頬のこけた丸山先生の写真も載っています。できれば皆さんに見ていただこうかなと思っていたのですが、第1部で私の右隣にすわった筑紫哲也さんが、それをお見せしたら興味津々、ちょっと貸してくれといって、いま手許にないんですね。(笑)丸山先生の発言ばかりでなく、戦後2周年目のそのときの発言というのは、一つひとつどなたの発言も胸をうつものです。 丸山先生の発言(「20世紀最大のパラドックス」『丸山眞男集』第9巻)は皆さまご存知と思いますが、個人的な話はふだんしないけれどもと、あえてお断りになりながら、実は私は多磨墓地の母の墓にまいってそれから参りましたと言われた。お母様が「8月15日」に亡くなられたことを、このとき初めて話をされました。そしてご自分が宇品でどのようにして敗戦の日を迎えられたかをお話になり、そのあと確か私の記憶では、私は実は被曝者ですとおっしゃったんですけれども、活字になる前に速記録をお見せするのですが、その言葉は削られているわけですね。削られてあえて使われていないのですけれども、事実上は被曝をされているわけです、何度も何度も兵隊として2等兵として広島の廃墟の街を歩かれているわけですから。丸山先生は肝臓を傷められて、それが致命傷になったわけですけれども、先生の健康を損なった結核と肝臓、特に肝臓の病というのは被曝者としての後遺症に発するものではなかったかと思います。 このようにして、丸山先生はご自分の戦争体験を語り、そして最後に、戦前は最後発の帝国主義国家であった日本が、8月15日を境に最先発の平和主義の国になるというひとつのパラドックス、そういうことでお話を終えられました。 ただ、残念ながらそれから36年余りの歳月が経って21世紀を迎えてみると、どうもそのパラドックスはパラドックスで終わらなくなってきた。もう一度戦前に立ち戻るというか、先ほどの井上ひさしさんのお話にもありましたように、明らかな戦争責任というものはないがしろにされて、この国が続いている。いま総理大臣という立場の男が靖国神社に行くというような状況があるわけです。いまのこのような状況を、丸山先生がご存命だったならば、どのようにご覧になるか、どのように考えられるか――残念ながら現在の状況を説き明かす正鵠を射た論説には一向にお目にかかりません。丸山先生がもしここにいらっしゃったならば、どういう判断をされ、どういう示唆をしていただけるのかなという思いを抱きながら、今日の集まりに参加いたしました。(拍手) |