1980年1月12日、丸山は日本学士院で標題の通りの論文報告を行った。1978年11月13日に日本学士院会員・第1部(人文)に選ばれた丸山は、会員の義務として1980年以降92年まで定例の部会総会で6回の論文報告――会員の研究テーマに即して行われる講義形式の報告――を行っているが、この報告が同院における最初の論文報告だった。他の5回の報告内容および開催年月日については、5度目の報告「福沢諭吉の『脱亜論』とその周辺」(1990.9.12、本誌第20号掲載)への編集部による「前書」を参照されたい。 本報告は前年後半から執筆され、同年三月に刊行された『日本思想大系31 山崎闇斎学派』(岩波書店)の解説として執筆された「闇斎学と闇斎学派」(『丸山眞男集』第11巻、以下『丸山集』)と関連しており、特に二のハは「闇斎学と闇斎学派」註(15)で述べたことをさらに詳しく説明している。「闇斎学と闇斎学派」執筆中や校正刷の校訂中に2度までも入院したエピソードを述べた「近況報告」(『丸山集』第11巻)のなかで、闇斎学派について丸山は「江戸儒学のなかでもかねて一番きらいな崎門派」と率直に自らの好悪を表明しているが、丸山の儒学研究にしめる闇斎学派の位置については、飯田泰三氏執筆の『丸山集』第11巻「解題」と本誌第18号の「中国古典における『異端』の字義をめぐって――天国からの衛星中継による〔テレビ討論〕――」の「解題」を参照されたい(飯田『戦後精神の光芒』所収)。 以下の記録は、日本学士院会員・福田歓一氏(本会会員)のご厚意により、学士院に保管されていた録音テープを借りうけてダビングし、それをもとに復元したものであるが、録音の初めの第1部が欠けているため、やむを得ず丸山の論文のほぼ該当すると推察される『丸山眞男講義録』第1冊の部分を借用して篏入した。なお『丸山集』第11巻の「闇斎学と闇斎学派」の初めの部分と註(15)を録音記録のあとに収め、参考に資することとした。編集部で[ ]で註記を加え、35カ所に註をほどこした。読み下し文については、原則として、録音にあった丸山の読み方にしたがって再現し、註の欄に原文を記した。【 】は引用文における丸山自身の補註である。また参考資料として当日配られた闇斎学系統図を記録のあとに掲げた。 テープの収録は丸山の了承を得ているが、公表を予定したものではない。今回の公表にあたり、日本学士院の了解と著作権継承者の丸山ゆか里氏の了承を得ている。文責はすべて編集部にある。(編集部) |